suwaowa: 継続して更新されるブログポスト
http://suwaowa.blogspot.com/2008/09/blog-post.html
このブログ記事は傑作だと思う。
文学でいえば中篇小説クラス。
ぼくはこれを読み、「ロガーの血」って部分だけquoteした。
映画「イン・トゥ・ザ・ワイルド」を観た。以下、感想。
映画『イントゥ・ザ・ワイルド』オフィシャルサイト
http://intothewild.jp/top.html
当然内容に言及しているので、観るつもりの人は気をつけて。
この映画の原作は、登山家でジャーナリストであるジョン・クラカワーが書いた「荒野へ(Into The Wild)」。アメリカではベストセラーになり、放浪の末にアラスカで死んだ若者クリストファー・マッカンドレス(Christopher McCandless)を英雄視する人々も多いとか。
Wikipediaにも項目がある。
なお、Wikipediaの以下のページには、彼の遺体と共に発見されたカメラ内に残っていた彼の最後の記念撮影風の写真がある。そういうのを見たくない人は注意。
Christopher McCandless - Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Christopher_McCandless
この映画を観ていてまず面食らったのは、クリスが旅するアメリカの風景、自然の存在感の大きさだ。映画なんだから視覚に訴えてくるのは当たり前だが、本を読んでわかったつもりになっていたクリスの旅について、より身体(からだ)レベルでわかったような気がする。彼は成績がよく、社会問題への関心も持ち、内省的な若者だったが、高校時代はクロスカントリー部のキャプテンを務めるなど身体能力も高かった。その彼が挑んだ場所はこういうところだったんだ、ということがよく実感できた。
クラカワーの「荒野へ」にもその記述はあるが、映画の方が大きく踏み込んでいる点として彼の両親の不和が挙げられる。で、皮相な見方をすればクリスの死は「両親に怒りを抱いた若者が家を飛び出し、無軌道な旅の末に招いた悲劇だ」といった感想も抱けてしまう。
でもそういう類型化をする前に、少しでもクリスについて調べてみるといいと思う。
映画では、アラスカでクリスがジャック・ロンドン、トルストイ、ソローを読みふけったこと、とくにソローの「ウォールデン(森の生活)」を読んでいたことや、パステルナークの「ドクトル・ ジバゴ」を読みどこにアンダーラインを引きどんな感想を書いていたかといった点にはほとんど描かれない。内面の描写が足りないのだ。
ラストシーン。クリスの最期の描き方はかなり強烈だ。息絶える瞬間までをリアルに、というより映画ならではの表現を総動員して恐怖を煽り立てる。えげつないと言ってもいい。このシーンに感情移入してしまうと、以後しばらく気分が落ち込むほどだ。
また映画では、彼が食用のアメリカホドイモと似た有毒植物を食べたために下痢をして衰弱し、悪態をつくシーンがあるが、これは彼の死後出てきた推測であって、まして彼がそのことに気づいていた証拠はない。つまりフィクション。
こういう演出が必要だったのか? と思う。「お父さんお母さんの言うことを聞かない悪い子はこうなります」という教訓映画のようじゃないか。
この映画は、5点満点中2.5点。
ついでに。
クラカワーが「荒野へ」の元となる記事を"Outside"誌に書いたのは1993年1月。検索してみたらウェブサイトに掲載されていた。
Into The Wild - The Story of Chris McCandless by Jon Krakauer | Outside Online
http://outside.away.com/outside/features/1993/1993_into_the_wild_1.html
この記事が世に出ると、編集部に大量の投書が届き、なかには「マッカンドレスを殺したのは彼の無知であり、それはアメリカ地質調査所の四分儀とボーイスカウトのマニュアルがあれば、正されたはずです。」といった非難も数多かった。
批判はまっとうなものだと思う。
彼は雪解けで増水した川を渡れず、足止めされたために餓死に至るのだが、数Km上流に歩けば渡河できる手動ゴンドラや食料が備蓄された避難小屋があることも知らなかった。まともな地図を持っていなかったから。
が、それでもクリス・マッカンドレス的な行動が支持される理由はあるし、わかる。
クラカワーは自分が「やみくもな情熱」に突き動かされていた若いころの体験を通じて、クリスの動機や心情について解釈を試みている。
なかでも、「青春期には死は(...)抽象的な概念としてとどまって」おり、「死の間際までそっと近づいていき、崖っぷちから除きこまずにはいられな」いが、「それは、死の願望とはまったく異なるもの」だという説明は、ぼくには納得できるものだった。
生きていた!生きている? 境界線上の動物たち (BE‐PAL BOOKS): 多田 実
http://www.amazon.co.jp/dp/4093664013
を読んだ。
絶滅の危機にある、またはすでに絶滅したとされる動物たちのことを、現地取材などを活かしながら綴った本。出版は98年なのでやや古い。シマフクロウ、ニホンカワウソ、ツキノワグマ、イヌワシなど有名な動物ばかりでなく、名前も知らなかったクニマス、ウケクチウグイのようなものも登場する。
明治の中ごろまでニホンアシカは東京湾を訪れていた、なんて史実も紹介される。
以下、強く印象に残ったところ。強調はすべてぼくによるもの。
「天狗たちの黄昏 イヌワシ」の章。
「これらの開発計画の最大の欠陥は、事前の環境調査(アセスメント)がまったく行われていない点だ、と菅家さんは語る。ダム計画ではまったくゼロ、大規模林道における調査はイヌワシが博士山を去ってから始められた。そして菅家さんが「A級戦犯」と語る広域基幹林道では、イヌワシの巣に最も近い心臓部の森を切り開くのにもかかわらず、植生の調査しか行わない。そして肝心のイヌワシの生息調査は「工事しながら調査する」という。これは建設省と水資源開発公団が長良川河口堰で行ったのと同じ手口のこまかしだ。」(43ページ)
アセスメントと聞いて、植物だけでも1300種を超える多様性を誇る(これは日本でトップレベルだとか)高尾山のどてっ腹にトンネルを掘るという「高尾山トンネル」問題を思い出した。
高尾山トンネル崩落、続報(動画つき):詩人53の【コノコトコトコトモノコトコラム】
http://53.ram.boo.jp/?eid=798796
1. 環境省による環境アセスメントはないの?
高尾山トンネル工事が話に持ち上がった当初から、アセスメントはある。が、環境省によるアセスメントはなく、都が行なっている。都の出してくる調査報告はあまりにもいい加減。高尾山にはない植物の名前が載っていたり、あるいはあるはずの植物が載っていなかったり。堪り兼ねた住民が、住民によるアセスメントを行ない、毎回提出しているが、返事は「問題ない」の一点張り。八王子城趾のトンネル工事の際には、「オオタカの産卵・巣立がゼロになった」という報告にすら、同様の回答だった。
「ウドの大魚 ウケクチウグイ」の章。
「農工業用水や発電などの水利用は、すべて効率性や利便性を追求するだけでは「次の変化」に対応できないことを人間が知るべきです。ひとつの目的のためだけに高効率を求めると、他の面ではまったくだめになってしまいます。コンクリートの三面張りもそうですが、治水効率は良くても、生物の多様性にはまるでだめです。(略)
ウケクチウグイは図体が大きいだけで、食用にも遊魚にも鑑賞にも適しません。人間には何の利用価値もない魚です。しかし、そういう魚が生きていて、その魚が生態系の中で、どういう役目を果たしているのか。それが忘れられ、軽視されています。そうした世の中では、全体が健全になることができないと思います。」(79ページ)
この取材は97年~98年のものだけど、この頃からこんなことが言われていたのか、という感じ。
「古代島の妖精 アマミノクロウサギ」の章。
「今から100万年ほど前に、九州と琉球列島の間にトカラ海峡が生まれた。この時点で大陸につながる細長い半島状になった琉球列島は、北から順位島として独立していった。そうか!本州から見れば中途半端に感じる位置の奄美大島だが、大陸から見れば奄美こそが“大陸の果て”に位置する島であったのだ。そして古代の動物たちが、新世代の動物たちとの生存競争を免れて生き残るタイムカプセルとなった。」(225ページ)
なんで琉球列島でも特に奄美大島に固有種が多いのかという話、納得した。
これいい。音楽がちょっとアレだが。
